短編小説「水槽の中」

 それは真っ青な長びれを揺らし、僕の目の前を通り過ぎた。エアレーションから出る泡々に振り返ることなく、右に左にと水槽の中を悠然とゆく。僕はこの深海を想わせる熱帯魚に見惚れるふりをして、水槽の向こう側に透ける物憂げな男たちの横顔を味わっていた。

「なんだか君みたいで」

 買っちゃったんだよね、とこぼす僕など視界の端にも入れないふたりは、ガラス越しに醸す雰囲気がひどく似ていた。

「イイトコノデって感じがするだろ」

 ベタは、そのひれで舐めるように水に触れる。水の重さを物ともせず、長いひれで一瞬一瞬を絡め取ってゆくその生き物は、澄ました横顔でまた僕を袖にする。通りがかりの店でこの青に吸い込まれたのは、定めのようなものだった。儚げな横顔に問いの答えを求めたくなった日、僕はベタを迎えた。

「この子、ひとりじゃないとだめなんだって。可哀想だけど」

 何気なく言った言葉に、彼は「なんで」と珍しく食いついた。

「傷つけてしまうんだ」

 相手を、と僕が口走ったころには、彼の口元がピクリとこわばったのが見えた。冷たいフローリングに視線を落としたかと思えば、すぐに水槽のベタを睨む。ベタはそんなことを知るよしもなく、ピアノを弾く指先のようにひれを動かした。

 ベタはもともと気性が荒い魚だ。闘魚と呼ばれるベタ・スプレンデンスは、他の個体を見ると立ちどころに激しい縄張り争いを始め、その美しいひれを傷だらけにしてしまう。どちらかが死ぬまでやり合うこともあるという。

「だから俺か」

 ひとつ間を置いて、流し目に僕を見る瞳とぶつかった。彼はわざと大きく口を開けて笑顔を見せた。上がりきった口角はぎこちなく、冷ややかな花がふたりだけの部屋に咲いた。

 ああ、また失敗した。こうして自分に落胆してゆく。

「違うよ。それは見た目の話で」

 彼はいつだってひとり、暗い海の底に沈んでしまおうとする。

「そいつはひとりがお似合いだ」

 そう吐き捨てた彼が、おもむろに水槽へ近づいた。僕はマグカップを握りしめ、入れ替わるように飲み物を取りに行く。

「いる?」

 少し離れたキッチンからマグカップをひょいと掲げて声をかけた。しかし、水槽を挟んで反対側にいる彼に僕の声は届かない。なにやらベタと話をしているようだ。水槽越しに柔らかく動く口元に、心が曇った。


 金木犀の香りが鼻をかすめるようになったある日、僕はベタを購入した店を訪れた。

「最近、フレアリングをしなくて」

 ベタの動きが気になっていた僕は、ある女性店員の顔にすがる気持ちで質問をした。

「たまにいます。やらなくなる個体が」

「それはやはり、飼う環境が悪いんですか」

 眉を下げる僕に、彼女は何かを言いかけて裏へ消えた。戻ってきた腕の中には、水槽を彩るグッズと手鏡が抱かれていた。

「飽きたのかも。それか、刺激が足りない」

 パッと目についたのは女性ものの手鏡だった。黒の下地に大きな白の花柄は、コーティングの一部が剥げ、売り物には見えない。

「鏡ですか」

 用途の分からないそれを見て、思わず疑問を口にした。女性店員は手鏡を握り直し、鏡面をこちらに向けた。

「自分が動く姿を他の雄と勘違いして、フレアリングすることがあるんです」

 本能ですから、と彼女は言う。――本能、あの子も他の雄を前にしたら、相手を傷つけてしまうのだろうか。どちらかの動きが鈍るまで、美しい青の長びれを傷ませながらいがみ合うのだろうか。女性店員は、「その子の性格によりますし、一緒に育った個体にはしないなんて話も聞きますけど……」と自信無げに付け加える。彼女が持つ手鏡の中には、腑抜けた男がひとり映っていた。

「雄のベタは混泳させられないので」

 家にある鏡で全然大丈夫ですから、と話を続ける声が遠くなった。ここぞとばかりに物を売りつけるでもない店員の名札には、苗字の上に小さく〈熱帯魚が好きです〉と書かれていた。

「他の子も見てみたいのですが」

 一緒には入れないので、と前置きし、案内されるまま以前も来た熱帯魚売り場へ向かう。

「小さめですが、よく動く子ですよ」

 店員が示す先を見ると、そこには赤一色のベタがいた。身体は、青の子より一回り小さい。きっと虐げられる側だろう。一目見て湧いたのは、同族嫌悪のような感情だった。

「泳ぎは下手じゃないんですね。アカベタなのに」

 冷めた目で水槽を見つめる僕に、女性店員は「この子は上手です」ときっぱり言った。火がついたことを隠し切れない声色に、ああ、すみません、と慌てて釈明する。

「アカベタって、〈すごく下手〉という意味があるので、つい」

 面白くないことを言いました、と言ってうなだれていると、彼女は驚いた表情を見せた。

「学がないもので」

 そう言って苦笑を浮かべた顔に、今日来た目的を思い出す。

「熱帯魚のことはお詳しいじゃないですか」

 あなたに聞くのが一番だと思った、と伝えるには純粋さも色気も足りなかった。

「仕事ですから」と振り払った彼女に、「それだけですか」と食いついて、僕は彼女の手書きの名札を指差した。

「ああ、これは別に」

 おくれ毛を耳にかけながら、彼女はバツの悪い顔をした。僕は、そういうわけではなくて、とさらに不格好な言い訳を重ねる。

「でも、あなたも同じじゃないですか」

 彼女の問いに、すぐには答えられなかった。逃げるように視線をそらす。周囲の水槽から複数のモーター音が響き、僕を震わせる。

「どうしようもなく目が離せなくて。昔から」

 僕は瑠璃色の子を飼うまで、こんなに優美な魚がいることすら知らなかった。

 赤いベタとともに家路に着くと、アパートの部屋の前には見慣れた男が寄りかかっていた。僕はリュックを漁り、取り出した鍵でドアを開けた。ガチャッと音が聞こえたことを確認すると、彼に目配せをしてから部屋に入った。彼が家主に続いて敷居を跨ぐのは、もう慣れたものだ。靴を揃えようと後ろを向いたとき、玄関に足を踏み入れたばかりの彼から馥郁と香る気配を感じた。

「連れてきてるよ」

 僕は、彼の肩に座っていた橙色の小花を摘んだ。幼児の小指の爪ほどの花には、まだ強い香りが残っている。彼は自分の肩に視線を落とすと、花をなぞった延長線上にいる僕を見た。長いまつ毛がゆっくりと上がり、現れた瞳は今日も海の底のような静寂さを秘める。僕はこの瞳を見つめるたびに、青いあの子を大事にしようと決意するのだ。

 部屋に入り、僕はダイニングテーブルに荷物を置く。コーヒーを準備していると、買い物袋を見た彼が言った。

「また買ったのか」

「そう。でも別居だよ。二世帯住宅にリフォームするんだ」

 コツン、とグラスを彼の前に置き、ダイニングテーブルの空いているスペースで今日買った荷物を広げた。仕切りは透明から色付きへ変更できる仕様だ。店員は、水槽を色付きの仕切りで区切り、フレアリングをさせたいときだけ、一時的に透明の仕切りにして相手の姿が見えるようにすることを提案してきた。

「二世帯住宅? ルームシェアとか、もっと洒落た言葉があるだろ」

 彼は、ハッと小馬鹿にしたように笑った。

「フレアリングのために一緒にいるだけ。ほとんど相手の生活に干渉しないんだから、二世帯住宅と呼ぶのがぴったりさ」

 仕切りの外袋を丁寧に開ける。視界の端に、彼の決まり悪い顔が見えた。言葉を求められる気がして、僕は逃げるように作業を始めた。

 青いベタをすくい、一時的に水槽から出す。生き物がいなくなった水槽に手を突っ込み、真ん中あたりに置いていた水草と石をよけた。仕切りのセットは簡単だ。それらしく模様替えをし、先住者を右側の部屋に住まわせる。

「いくらなんでも、顔合わせくらい必要か」

 少々狭くなった水槽でも変わらず自由に泳ぐ青を見ながらつぶやいた。

「瑠璃、君がいたお店から来たんだ。少し小さいけど、泳ぎが得意な子だよ。名前は」

 まだ決めていなかった。何しろさっき出会ったのだ。赤いベタには目を奪われるような引力はなかったが、ほとんど即決だった。

「何がいいかな」

 振り向きざまに彼を見ると、気怠そうな声が漏れる。彼はこちらを睨みながらスマホを握り、調べ物を始めた。

 この律儀さが彼の首を絞めている。そう肌で感じるたびに、僕は遠くを見つめた。



「僕じゃ代わりにならないか」

 高校三年の夏、彼の左腕に四センチほどの痣を見つけた。だいたい同じ場所にあるそれは、いつも赤みを帯びた紫色をしていた。血管まで達する衝撃が頻繁にある証拠だ。

 彼は制服のシャツの下に、いつも黒いアームスリーブをつけていた。ピチッとした素材は、肌に張り付いてしなやかな筋肉のかたちを浮かび上がらせる。

 放課後、彼は決まって、教室の後方にあるロッカーの前でアームスリーブを直す。ひとり周囲に背を向け、黒い布をずりずりと引いたり均したりしながら整える。その一瞬に、ある日、僕は紫色に変わろうとしている痣を見つけた。その後も常に新しい痣を抱える違和感に、彼を目で追うようになった。――いや、実際はもうだいぶ前から、目を離せなくなっていた。ぶっきらぼうな口利きをするくせに、端々に典雅さを漂わせる彼が、僕の目には奇妙な生き物に映っていた。

 昔読んだ本の言葉を思い出す。


 あの人の優しさは、碁盤の目のようにきっちりしている。育ちのいい彼らしい一面だ。手には花を持ち、店の予約を欠かさない。そしてきっと今日も、わたしの好きなチョコレートをバッグの内側に忍ばせている。息が詰まるような完全な幸福の中に、わたしは確かな迷いを感じる。それは微笑みながらわたしの首に手をかける、幼きころより染みつく呪いだ。


 堅苦しさは直せない。そうしつけられたら、最後だと。

 理解も決定もできない年のころから刻み込まれたものは、簡単には消えない。端をぴったり揃えて服を畳むことも、こぼしたジュースを隠すように拭くことも、皆同じだ。意図せず自身の生活の中に紛れ、あたかも本人の性分かのように印象付ける。育ちは呪いだ。

 僕には分かっていた。その痣は、彼自身がつけていると。

「ついにイカレたのか」

 彼はバックを肩にかけ、首を傾げながら冷やかした。帰り道の河川敷で、背の高い草が青々と生い茂る暑い日だった。歩くだけでじんわりと汗ばみ、頭がおかしくなった人間がその辺に湧く。風を切るために交通違反をする者、一枚余分に脱いで職務質問を受ける者、夏はそういう季節だ。みんな、どこかイカレている。

 彼に、痣が見えたことを話した。

 途端に彼の目つきが鋭くなる。疑心にも恐怖にも見える双眸が、僕を捕らえる。

 なんで、とは聞かなかった。聞いてもどうにもならない。彼は、この手段を選んだのだ。それがすべてだ。

「僕、慣れてるから」

 そう口にした途端、彼の喉仏が上下した。理解できないものを見る彼の瞳に、不思議と動じることはなかった。

 なんで、と聞いたのは彼だった。

 誰にも話すつもりはなかった。昔話は恥の告白に似ていた。


 物心ついたときには、すでに父親が変わっていた。義父は導火線の短い男だったので、失敗を繰り返す子どもの僕を嫌った。温厚だと思っていた母親を、事なかれ主義の愚かな女だと知ったのは、少し大きくなってからだ。おかげで幼少期からずっと痣を眺めて過ごした。皮膚の下で血管が破れ、血液が溢れ出し、やがて止まり、再吸収されていく。血液の微細な変化に詳しい子どもができあがった。

 彼が抱える加虐性を見たのは、ある昼下がりだ。

 教室で義父と同じ目を見た。普段の彼に似合わない猛々しさで、目先の黒板を睨みつける。そんな瞳をしているくせに、彼は堪えるように唇を結び、拳をきつく握る。あの男とは明確に異なっていた。

 机の下で、彼は自分の腕を殴った。続く鈍い音に、周りは誰ひとり気づかない。心臓が激しく僕の胸を叩く。乱れた心拍のリズムにあてられ、息が吸えているのかどうかも分からなかった。

「怪我してほしくないんだ」

 こんなに綺麗なのに。

 艶のある髪はいつもさらりと軽い。くっきりとした二重瞼に、長いまつ毛が続く。それをくぐると、真っ黒の瞳はそこらじゅうの光を集めて不気味なほどに輝いた。決して派手な見てくれではないのに、身の内に由来した端正さに心がざわつく。

 彼が他人を巻き込むまいと、この自己処理に辿り着いたのを悟った僕は、自分が的になることを申し出た。イカレた提案だ。しかし夏の波間なら、この奇行も隠せる気がした。

 気がつくと僕は、彼の左腕をとり、アームスリーブをめくっていた。

「また、紫になってる」

 数日前に見たものは黒ずんでいた。そこに一部重なる形で、新たな痣ができている。

「……何なんだ、お前」

 彼は沈黙し、目を見開いたままその場に立ち尽くす。その間も指先から伝わる震えは、間断なく僕の手のひらに届いた。

 ああ、失敗した。


 それから、僕らは会うようになった。人目につかない場所を選ぶが、彼が僕に手を上げることはなかった。

「気にしなくていいのに」

「……黙ってろ」

 目と鼻の先まで近づくものの、彼は数秒のうちに掴んでいた胸ぐらをパッと離した。

 その数日後、彼の腕がまた紫になっていたのを見て、今度は僕が彼を呼びつけた。

「何をしているんだよ」

 この焦燥感がどこからやって来るのか。

「君は、人とやり合わないと分からないよ」

 じれったい。つい、強い言葉が出てしまう。正面の目つきがさらに鋭くなった。

「そんなに殴られたいのか」

 次の瞬間、彼の拳が僕のみぞおちを打った。よろけて壁にもたれかかる。上手く呼吸ができず、うめき声すら出なかった。

 そんなとき、近くの扉がギギギと錆びれた音を立てた。

「おい、何をやっている」

 ほとんど使われていないはずの部室棟から出てきたのは、体育の先生だった。握っていた手を引っ込め、彼は僕とともに顔色を曇らせる。先生は彼に疑いの目を向けながら、僕に話しかけた。

「何かされてないか」

 先生は、彼が手を出した瞬間を見てはいなかった。怪しみはすれど、確証を掴まずには動けない。

「彼とはただ話を」

 それだけです、と弁明する僕は、目の前の勝機に顔が綻んでいた。その油断がいけなかった。

「いや、ちょっと見せてみろ」

 ズボンからはみ出ていたシャツの裾を、先生が掴む。あ、ちょっと、と言う間もなくめくられたシャツからは、痣だらけで黒ずんだ皮膚があらわになった。慌てて隠したが、先生の横に佇む彼の瞳にはしっかりと映ってしまった。表情をなくした彼は、瞬きひとつせず、先程までめくられていたあたりを呆然と見つめている。

「それ、昨日今日の話じゃないだろ」

 お前まさか、と先生がぎろりと彼を睨んだ。一瞬にして緊迫感が増す。彼は自分の立場の危うさに気づき、口を微かに震わせ、身体の横で拳を握って立っていた。いつもの威勢も消え、言い返すこともできないでいる。

 僕は勝負をしたくなった。それは運命的な巡り合わせだった。今日、この時のために、今までがあったとさえ思えてしまった。

「ああ、これは父親です。義理のですが」

 血の繋がりはありません、と言ってしまえば、訳ありと言わんばかりの僕に先生は怯む。

「いつからなんだ」

「覚えていません。もうずっと、小さいころからです。証明と言うなら、母に聞いてください。……平気で『気づかなかった』と言いそうですが」

 淡々とこれまでについて打ち明けていく僕に、先生はすっかり言葉を失っていった。いち早く、蛇のような目から彼を逃がしたい。――あと一歩。

「他も見ますか」

 僕は、制服のシャツのボタンに手をかけた。ボタンを指で擦り、きつい穴から解放させていく。ひとつ、ふたつ、みっつ……、ゆっくりとボタンを外し、指先だけで先生へにじり寄る。

「いや、今は」

 先生は、僕の申し出を断った。

「今から職員室に来てもらえるか。ちょっと確認したいことがある」

「分かりました」

 じゃあまたね、と彼に白々しく手を振った。怯えた表情をする彼が、手を振り返すことはなかった。

 職員室に行く途中、通りがかった保健室の前で、先生は「少し見てもらうか」と言って立ち止まった。引き戸をノックすると、養護教諭の女性の先生が「どうしました」と顔を出してにっこり微笑んだ。

 話を聞いた彼女は、いつもより緩慢な口調で僕に体調を聞いた。「問題ないです」と返すと、彼女はさらに表情を硬くした。

 身体を見てもらうことになり、僕はシャツのボタンをふたたびゆっくり外す。カーテンを一枚隔てた向こう側では、いつの間にか増えた先生たちが虐待の疑いがあることを慎重に議論している。

「校長、呼んできますか」

「その方がいいと思います。だって本人が」

「通報の対象ですから、手順を確認した方がいいですね」

 最後のボタンに手をかけたとき、「通報」という言葉が聞こえて、思わず手が止まった。

――卒業まであと半年もあるのに、住む家はどうしよう。

――大学は諦めた方がいいかもしれない。働いて、お金を工面することが先だろうか。

 昔はこうではなかった。早く家を出たい、誰か助けて欲しい、そう常に望んでいた。それなのに、今はこの地獄を離れる不安が胸の中に渦巻いている。ぶたれることにいちいち反応しなくなったのと同じように、いつからか感覚が鈍麻していた。

「僕、一人暮らしできますか」

 シャツを脱いで上半身があらわになった僕は、やっと一端に心細くなった。周りには大人がまた増えていて、「何も心配しなくていいからね」と僕に声をかける。優しくされると、自分が〈可哀そうなもの〉なのだと実感する。

 身体観察が終わり、シャツを羽織る。集まっていた先生のうちのひとりから、ひとまず荷物を持ってくるよう指示された。

 大事になってきた。そりゃそうだ。分かっているはずなのに、心音がいつもより速く、強く聞こえた。僕は「すぐ戻ります」とだけ言って、足早に保健室を出た。


 誰もいないはずの教室には、男がひとり立っていた。

「おい」

 日が傾き、西日が揺れるカーテンを橙色に染め上げる。

「なんで君がそんな顔をするんだ」

 変な顔してる、と笑うと、言葉は返ってこなかった。ただ、彼は静かに怒っていた。

「いつもそうなのか」

 そう、とは何を指しているのだろう。服に隠れる場所にしかない無数の痣のことか、あるいはじりじりと、ある種の強引さを持って大人に食ってかかるはしたなさか。

「まあ、でも別に。大したことじゃないから」

 嘘ではない。大したことではないのだ、この程度のことは、ずっと僕の日常だった。

「だから俺に殴られてもいいってか」

「それは君が」

「何だよ」

 ドミノが倒れていく。パタパタと軽い音を立て、指数関数的に速度を上げていく。

「もういいんだ。大本は家のことだし」

 気にしないでよ、と告げると、彼はさらに顔を歪めた。

「……イカレてる」

 ふたたび握られた拳は振るわれることなく、彼は教室を出て行った。彼の傷ついた顔が、いつまでも頭から離れなかった。


 その後、僕は一時的に保護され、高校を卒業するまでの間は児童養護施設が家となった。

 しかしそれもすぐに終わる。自立を求められた僕は、大学受験を諦めた。別に特段行きたかったわけでもない。受験勉強をやめて空いた時間は、すべて図書館で過ごした。不安をかき消すように、僕は本を片っ端から読み漁った。

 両親とはもう会っていない。義父は捕まり、長きにわたり見て見ぬ振りをしてきた母親も事情聴取を受けたと聞いた。今、あの人たちがどうしているかは知らない。

 何度か僕を訪ねてきた大人がいた。僕は、「二度と両親には会いたくない。ひとりで生きていく術を身につけたい」と泣いてみせた。我ながらなかなかの好演だった。それは僕の希望としてすんなり受け入れられ、支援が切れる十八歳以降の生活に助言をくれた。就職面接を受け、無事に建設会社の内定をもらった。そして高校を卒業すると、紹介で借りた安いアパートに移り住んだ。

 アパートの狭い浴室で、湯気でぼやけた鏡を通して自分の身体を眺める。

 新しい痣ができることはなくなった。それでも僕の身体は薄く黒ずんだままで、お世辞にも綺麗とは言えなかった。綺麗にはならない。なかったことにもならない。もうないはずの痛みが、時折蘇っては歯を食いしばる。


――ピーン、ポーン。

 シャワーから流れ出た水の行方を追っていると、インターホンが鳴った。急いでシャワーを止めて浴室を出た。身体にタオルを巻き、玄関の古びた扉をほんの数センチ開けて外の様子を伺う。

「どちらさまですか」

「開けろ」

 扉の向こうには、不貞腐れた面の彼が立っていた。言われるがままチェーンロックを外し、彼を部屋に招き入れる。玄関をくぐった彼は、いつかと同じ目をして息を止めた。服着ろよ、と小さくたしなめる顔色は、まるで幽霊を見たかのように青い。

 きっと彼の世界には、暴力なんてものは落ちていないのだろう。そうでなければ、あの程度の加虐性に律儀に悩み、自傷を選ぶ子どもなどいなかった。

 彼は、僕の部屋に出入りするようになった。成人しても、彼が大学を卒業しても、それは途切れなかった。洋菓子店の甘くないプリンを買ってきたり、夜に缶チューハイを持ってきたりした。手ぶらで来ることはない。そしてこの前は、部屋に最近人気の漫画を置いていった。僕にくれたのではなく、なんだそうだ。本当に奇妙な生き物だった。



 彼が、「そいつの赤は」と言いかけ、また視線をスマホに戻した。開いていたのは、赤色の名前が無数に載ったサイトだった。

「名前をつけるって難しいだろ」

 瑠璃はまさに瑠璃色って感じだったからさ、と得意げに言ってみた。憎まれ口のひとつやふたつ飛んでくるかと思ったのに、彼は「ああ」とだけ言ってスマホの画面を見つめる。唸りながら赤いベタとスマホの画面を行き来する姿が、なんだかとても滑稽に映り、僕はふふっと笑った。

 集中が切れたころ、面倒ごとを放り投げるように彼は言った。

「こんなに赤かったら、どこにいてもわかる。名前なんているのか」

 はぁ、と吐く息がいつもより大きく聞こえる。ダイニングテーブルの椅子に座り込み、どかっと背もたれに身を預けた。

 そんな彼に、僕は思わず息を飲んだ。

「……君に、見えるのかよ」

 深い海の底で、赤色を見ることは叶わない。深く潜れば潜るほど、赤色の光は吸収されて見えなくなってゆく。赤いベタを迎え入れたのは、彼の奥底に映らない、ちっぽけな自分のようだったからだ。

 彼は椅子に座ったまま、「なんか言ったか」と気怠そうに聞き返した。

「その子も深海では真っ黒だ」

「深海? 何の話だ。だいたい、その前に水圧でやられてしまう」

「確かに」

 僕が声を出して笑うと、彼は伏し目がちに歯を見せて笑った。

「だから、見えなくなることはない」

 彼の何気なく発せられた言葉が、僕の上を滑った。そして、欲が出た。

「この子たち、一緒に住めないかな」

 高揚した弾む声で、僕は赤いベタの袋にハサミを入れた。水がジャバジャバと音を立てて落ちてゆく。有り合わせで持って来たボウルの中で、赤いベタはふたたび自由を得た。真っ赤なインクを水に落としたように、それは優美な動きをした。僕は重たくなったボウルを両手で持ち、水槽の前に立つ。

「やめろ」

 彼は、僕の手首を強い力で握り止めた。

「大丈夫な気がするんだ」

「やめろって言ってんだろ」

 動きを止められ、ボウルの中の水だけが大きく揺れる。

「お前なんかが飼えるわけなかったんだ」

「失礼だな。どういう意味だよ」

 言葉の持つ熱がどんどん上がってゆく。僕の腕を掴む手に、さらに力が込められた。

「お前には無理だ、絶対に。大事になんてできるもんか!」

 彼が叫んだ次の瞬間、僕は感情の昂りに任せ、赤いベタを青いベタがいる側の水槽へ流した。すぐ脇では大変な剣幕で怒鳴る声がする。しかし僕の視界にもはや彼はいなかった。離れていく赤いベタを片時も目を離さず見つめ続けた。

 真っ赤なベタがつるんと着水し、骨格の一本一本がふたたび滑らかに動き出す。入水の音に驚いた瑠璃は、ひれをばたつかせて忙しない動きをした。これで赤い新入りに向かっていくことがあれば、僕はすぐに止めようと考えていた。視線に緊張が走る。

 すると二匹のベタは、互いに付かず離れずの距離を泳ぎ始めた。探るように互いに近づいたかと思えば、赤と青が交差しながらひらひらとご自慢の長びれを揺らして遠ざかる。照明に照らされた二色のひれは透け、重なると薄い紫色を呈した。

 ふと、アームスリーブが脳裏をよぎる。

 もう何年も見ていない、思い出の腕にそっと視線を落とす。ちょうど数巻だけロールアップされた袖からのぞく腕に痣はなく、黒ずみも見当たらない。内から光る美しい肌に戻っていた。

 肩の力が抜け、頼りない声が漏れる。それと同時に、僕を掴んでいた手が緩んだ。離された手首には彼の指の形をした白い痕がついたが、すぐに消えてなくなった。

「お前、怖いよ」

 驚いて彼を見ると、口が形悪く開き、頬が上方に寄っている。

「もっと生にすがれよ。なんでどうでもいいような顔をするんだ」

 きょとんとする僕に、彼は掴みかかる。僕の遥か後ろを睨んで、肩を震わせていた。


(了)

※HP掲載に際し、軽微な修正を行っております。


【賞歴・掲載歴】

2023年

河出書房新社刊行の文芸誌「文藝」編集部とソニー・ミュージック主催のmonogatary.comコラボ賞 一次選考通過(改題・改稿前)


2024年

講師推薦で大阪文学学校『樹林』2024年12月号掲載


2025年

慶応義塾大学出版会『三田文學』2025年春季号(No.161)新同人雑誌評欄にて紹介